娘との生活 1   −教科書を読む−
小学生の娘がいる。宿題の国語の教科書の音読を毎晩聞くのを日課にしている。繰り返し聞くもので、いろいろと感じることがある。

娘の誕生記念に植えたキクモモ: 中国で作られた観賞用品種の桃である。毎年4月に咲く。公道に少しはり出していて、本当はけっこう迷惑である。でも、この季節は道行く人の目を楽しませているらしく、面と向かって文句を言う人はいない。(単に、私が恐いだけか?)

実はつくが、食べられない(らしい)。ぽっかりと時間ができた去年の夏の終わり頃、一日がかりで狭い庭の手入れをしていたら、通りすがりの人に声をかけられた。よく知っている近所の人から、毎日家の前を通っているという人まで10人以上。みんな声を揃えて「その実は食べられるのか」と聞く。大きくなった実(直径7〜8cmある)がほったらかしにされて、朽ちて落ちていくのを気にかけていたらしい。大勢の人に心配してもらって、幸せな樹である。

果実酒やジャムにならできるのではないかと、私も毎年思うのではあるが、面倒なので、何もしない。放任主義でも育つところは、娘と一緒でたくましい。

 以前は毎晩布団の中で娘と本を読んでいた。最近また復活させようとしているが、娘は母の(あるいは父や自分の)作り話の方が好きである。それで、毎晩ほら話をしている。ところで、国語の教科書(大阪書籍/4年生国語)の音読は宿題である。毎晩読むので、いろいろ考える。

 最近、心に残っているのは、「ごんぎつね」(新美南吉著)である。いたずらして兵十のうなぎを盗ってしまった後で、兵十の母が死んだ。自分のしたことが悔やまれたごんは、毎晩兵十の家に栗やキノコを持っていく。人は深く考えずに行為することで、失敗をしてしまうことがある。自分が傷つけた人がいた場合、その人の不幸は自分の過失とは関係がなかったかも知れないとしても、因果関係を感じることはある。自分も不幸な生い立ちを持ったごんは、兵十に深く同情し、少しでも償おうとする。一方で、ごんの行為に気づかない兵十は、神様の仕業だと考える。ごんは、「自分が毎晩運んでやっているものを神様のおかげだなんて、つまらないな」と、思う。私はこのごんのつぶやきにいたく共感する。

 人は人のために何かをする。ごんはきつねであるが、それゆえ素朴で純粋な気持ちを持っている。そして、生きている仲間として兵十に思い入れる。何度か失敗もするが、野山の恵みを運んだ。彼には、兵十に感謝してほしい気持ちはなかっただろう。しかし、何もしていない神様に感謝するくらいなら、自分の行為に気がついてほしい、自分を許してほしい、という気持ちはよくわかる。

 私にも、ごんに似た経験がある。信仰心の厚い人は、ときとして隣人が救いの手を差し伸べていることを、神が助けてくれたと理解することがある。神を信じることを否定するわけではないが、今あなたを助けている私は神ではないし、あなたの神様のためにあなたを手伝っているのではないと言いたくなることがある。仲間としてあなたを放ってはおけないのだと。私はごんを(獣だけれど)人間らしいと思う。兵十は最後にごんの気持ちに気づくが、取り返しがつかない。失って始めて気がつくことは、現実でもしばしば起こる。気持ちのずれが不幸の繰り返しになるのだが、最後の一瞬に一人と一匹は和解する。悲しい内容であるが、この話には救いがある。

 ところで、最近「風のゆうれい」(テリー・ジョーンズ作、さくまゆみこ訳)という話を読んだ。二人の男が運試しをしようと旅に出る。そこで、彼らは3度の試練に出会う。一度目は川を、二度目は大きな谷を、三度目は海を渡らなければならない。川を渡るときの選択肢は、船に乗るか泳ぐかである。ディビッドは船頭に船賃として何を要求されるか分かったものではないからと、泳いで渡る。ジョナサンはぬれるのは嫌なので船に乗るという。はたして船頭は「月が欲しい」と言う。ジョナサンは手に持っていたコップに川の水を汲み、月を映してやる。大きな谷を渡るとき、ディビットは時間をかけて迂回する。ジョナサンはワシに運んでもらう。ワシは「真冬に夏のお日様を見つけるにはどうすればよいか」と問う。ジョナサンは、ワシに「緑色の草を探せ。草はお日様を溜め込んでいるから」と答えるのである。そう言えば、草のにおいは日なた臭いなと思った私であった。3度目は海である。ディビッドは、船を造り、帆に風をはらませて、大冒険の末に、向こう岸に渡る。そして、風車を作り、粉やになる。金持ちにはなれなかったけれど、食べるものには困らない生活をすることになる。一方、ジョナサンは魔法使いと取引をする。魔法使いは「風を捕まえろ」と言う。そこへそよ風が吹いて来て、ジョナサンはそれを追いかけ始める。いつまでたっても風を捕まえられないジョナサンは風のゆうれいになってしまう。作者は最後にこう言う。それでも、それはそれで幸せだと、私は思いますよ。

 娘が最初に読み終わった後、「で、それで?」どうした。結論がないではないか!で、毎晩聞きながら考えることになる。

 ディビッドは川や谷を渡るとき、要求されるものを聞いてから、それを受け入れるかどうか判断しても良かったのではないか。自分は持っていないし、手に入れることもできない、だから自分で努力するというのなら、理解できる。でも、最初から尋ねることさえしていない。そんな、考えることが苦手なように見える人物が、泳いだり歩いたりするのはまだ納得できるが、船を作り,帆に風を受けて航海するというのは分からない。粉やになることが悪いことだとは思わないけれど、金持ちにはなれなかったというのは、しょせんがケチ臭い男だったからではないのか。小心なものは小さな幸せで満足してしまうものである。

 一方、ジョナサンは首尾一貫していない。詭弁だとしても、機知に富んだ答えを言える人物が、何も考えずに吹いて来たそよ風を追いかけていってしまうだろうか。身体を使うのがいやで取引をする人間が,無意識に身体を動かしたりなどしないのではないか。しかも、どうしたら魔法使いをだませるか、ゆうれいになるまでの長い間立ち止まって考えることもしない。賭けをする人生で、まだ勝負を続けているつもりなのだから、「それはそれで幸せ」なのかも知れない。しかし、普通幸せな人はゆうれいにはならないだろう。風の精にはなったとしても。

 現実的に対処した男は(頼まれてもいないけれど)風を捕まえることができて、それなりの幸せを得られた。一方で、その場しのぎで取り繕って来た浅知恵の男には、大勝負しなければならない場面で、いい知恵が浮かばなかった。そう読むこともできよう。だけれど、この話のどこにも教訓的なものを感じないし、二人の人物に感情移入もできない。二人の行動に一貫した論理は見られない。“すとんと落ちのない話”は、何となく落ち着かないのであった。

 物語は面白ければいいので、図書館の本の中にこれが混ざっているのであれば、気にもしない。(私は基本的に説教くさい本が嫌いなので、ナンセンスでも面白ければ評価は高い。)著者はどのような生き方をしても幸せになれるというメッセージを送っているようにも思える。そうだとすれば、こういう考え方は日本人にはあまりないので、好感が持てる。どちらの男もそれなりに愚かで、それなりに勇気がある。人生はいろいろで、幸せもいろいろ。(これに似たことを言った、あまり国語のできそうな感じのしない偉い(かも知れない)人がいたな。)自分の行為に対しては責任を負わなければならないし、人は結局自分の生きたいようにしか生きられない。娘が読むのを聞きながら、そのようなことを考えるのではある。

 しかし、小学生の子どもにこの本を使って何を考えさせようと言うのか。そもそも作者は、自分の作り話が日本の教科書になるなどと考えて作ってはいないだろう。作者には、何の意図もないかもしれない。正確な日本語の文章を教えることが国語の役割だとしても、文章の正確さだけが教科書に要求される要素ではないだろう。国語は道徳とは違うけれど、この教科書を使っている日本中の小学校教師が、この文脈から何を教えているのか、興味がある。この内容では、疑似人生体験が増えることはあっても、論理的思考は身に付かないな、たぶん。

 ちなみに,私は人生でばくちはしませんが、どちらかというとジョナサンの味方です。娘はディビッドだそうです。彼女の人生,手堅くてつまらないかも...と思った母でした。   (2006年2月頃)

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