その2 歴史と文化
 考えたというほど思考したわけではありません。日曜日に見学をした印象です。
 初めての日曜日にタキシラとその周辺のガンダーラ遺跡を見ました。シルカップという古代都市の遺跡があります。ここは紀元前1世紀くらいから2世紀までの300年足らずの間,ガンダーラの首都としてにぎわいを見せていたそうです。一部が発掘され,建物の基盤だけが復元もされて,見学コースになっています。とてもりっぱな石造りの家並が想像できます。町の中心には真直ぐな道路を挟んで商店や寺院が並んでいました。その裏手には,民家がびっしりと立て込んでいたと考えられています。碁盤目状に区画整理した街の作りは,首都イスラマバードを設計する時のお手本にしたといわれています。
 民家は復元されていなかったので,見たいなあと思ったのですが,これはすぐにかないました。遺跡周辺の民家は,石の基礎部分が遺跡とそっくりで,その上にレンガで壁を作り,泥で天井を塗り固めた四角い家に住んでいるのでした。何のことはない,この地域の人たちは2000年前と同じ作りの家に住んでいるのでした。この地域の山のてっぺんにその時代の僧院があります。そこは当時の大学でした。ガンダーラ文化は仏教芸術が見事に花開いた時代のものです。その大学は石を積み上げて作った見事な要塞のような建物でした。28名ずつの教師と学生たちが1:1でひと部屋に住み,文字どおり寝食をともにして学問に励んだのだそうです。
 ところで,この周辺を歩いている間中,私の頭にはゴダイゴの“ガンダーラ”がBGMで流れていました。ある一定の年齢以上の人でないと分からないかも知れませんが,同行して下さった3人の,私より年上の日本人は全員分かって下さいました。“夏目雅子さんの三蔵法師はよかったな...”と盛り上がったのでした。(わからない人は両親に聞いて下さい。)三蔵法師が住んでいた長安(西安)に行った時は,“昔の日本人は命がけでここまで来たのだな”と思い,城壁の上からシルクロードの出発点を感慨深く眺めたものです。シルカップを見た時は,日本人を三蔵法師と置き換えて同じことを思いました。(なんだか,貧困な発想です。)でも,彼がここを訪れた時には,すでに都市は滅びていたのですね。私の感慨など思いもつかぬほど,深い思いにとらわれたのではないかと想像します。
 この辺りで発掘されたものは,タキシラとラホールの博物館に飾られています。中には日本で展示されたものもあるそうですが,とてもみごとな仏像や装飾品の数々に圧倒されたのでした。この都が栄えていた頃,日本は縄文時代か?と考えると,世界史上では辺境でしかなかった日本に生まれたものとしては,世界の大きさが身にしみました。
 ラホールでも,フォートや博物館に行きました。フォートは当時の王様の夏宮殿(別荘)だったそうです。これまた,壮大で美しい建物でした。壁一面にガラスのかけらでうめ尽くされた部屋があります。夜,この部屋でろうそくを焚くと,星空が出現したようにみえて幻想的だという話でしたが,そのとおりだろうと思います。別の部屋には,柱や天井の飾りに貴石を用いた象眼細工を施した部屋がありました。ラピスラズリやメノウ,蛇紋岩,角閃岩,ピンク石英,マラカイトなどの美しい石を白い大理石に埋め込んで,精緻な花や動物を表現しているのです。技術力の高さとともに,経済力を見せつけられる華美さでした。
 私は,長野県小布施町にある北斎館が好きでよく行きます。そこには,晩年の葛飾北斎の肉筆画がたくさん所蔵されています。北斎は浮世絵を描くのを止めて,肉筆画に移った頃から,画材に凝って,借金を重ねていたそうです。北斎館に飾られた絵や屋台を見ると,鮮やかな色使いがとてもモダンで,ヨーロッパの印象派の画家たちに強い影響を与えたこともよく理解できます。岩松院という寺には,みごとな鳳凰の天井絵があります。彼は,長崎から輸入品の高価な岩絵の具を買い漁っていたらしいのです。深い青はラピスラズリ,鮮やかな緑はマラカイト,赤はメノウなどが使われています。ラホールフォートで鉱石を絵の具としてではなく,かたまりとして絵にしているのを見たら,彼は何といっただろうと,ちょっと想像してしまいました。とにかく,金持ちのスケールが日本とは違います。

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