相互作用制御:新しい極低温量子系の開発

レーザー冷却が開発された当時、研究の焦点のひとつはいかに原子と光の相互作用を制御するかでした。 一本のレーザー光が1個の原子と何万回という光の吸収・放出サイクルを 途切れることなく行うようにするのは決して簡単なことではありません。 原子の超微細構造や磁気副準位、そしてレーザー光の周波数や偏光を詳細に制御することで、 室温の原子を一気にミリケルビンまで冷却し、真空槽の内部に3次元的に閉じ込めることが可能になりました。 この成果は一重に我々の原子と光の相互作用の理解が進んだことによるものです。

Feshbach共鳴の例 近年のボーズアインシュタイン凝縮体(BEC)やフェルミ縮退ガス(DFG)に代表される極低温原子の研究においては、 外場によって原子間の相互作用を直接に制御することが可能であることが示され(Feshbach共鳴: 右図)、 種々の新しい物性研究に道を開きました。 引力相互作用下で大きなBECが崩壊する様子やBCS-BEC crossoverの観測などは この原子間相互作用の制御なしにはあり得なかったものです。 レーザー量子物理学研究室では極低温冷却原子・分子を使った新しい物性の探索を試みています。



研究プロジェクト
  • 「電子陽子質量比の時間変化」Nature Communications大阪市大報道発表
    ビジョン:冷却分子は基礎物理定数の時間変化の最も鋭敏なプローブになりうるか?
    電子陽子質量比 現代の科学技術は、物理法則が未来に渡って絶対的に不変なもの、と仮定して作られています。 携帯電話、コンピューターといった精密機器は言うに及ばず、物理法則に依拠した物質化学、 さらには生命活動に至るまで、我々は「今日行った実験を明日再び行ったとき、結果は再現するはず」 と信じて研究活動を行っています。ではそう信じる根拠はどこにあるのでしょうか。
    我々の住む宇宙が無限の過去から始まっていれば、物理法則は不変と考えるほうが自然に思えます。 しかし近年の研究では、宇宙には始まりがあり、約137億年前から始まったとされています。137億年と言えば、約10の10乗年です。 例えば今年、物理定数を測定し、来年もう一度測定しなおしたら、10桁目で値が変化していた、などということはないのでしょうか?
    このような根源的な問いに答えるのが、精密測定のひとつの使命です。 我々は冷却分子の遷移周波数測定を通して、物理基礎定数の時間変化の極限に挑みました。 基本的なアイデアは、分子のエネルギー準位は電子の質量にも陽子の質量にも依存するので、もしその比がわずかでも変化したら、 その影響が分子スペクトルに現れるのではないか、というものです。 特に井上研で作っているKRb分子のような、アルカリ原子2個からなる分子においては、 電子スピンが1重項の状態と3重項の状態は性質が非常に異なります。 従って、その差の周波数を精密に測定すれば、電子陽子質量比の時間変化に敏感な分光ができると期待されます。
    井上研では、冷却したKRb分子を用いて上記の精密分光を行いました。一回に生成できる冷却分子の個数は少ないですが、 生成した分子の内部状態をなるべく揃えることで、上記の電子スピンに着目した精密分光を行うことができます。 冷却分子の速度が遅いことを利用して、ドップラーシフトも抑えることができます。得られた結果は 1年間に渡って、電子陽子質量比が14桁の精度で一致していたことを示していました。 これは測定精度において、フランスのグループによる従来の世界記録を更新するものです。 我々は生成する冷却分子数を増やすことで、さらなる精度の向上を目指しています。
    [参考文献]
    • Jun Kobayashi, Atsushi Ogino and Shin Inouye, "Measurement of the variation of electron-to-proton mass ratio using ultracold molecules produced from laser-cooled atoms", Nature Communications 10, 3771 (2019) DOI

  • 「冷却極性分子の生成」
    ビジョン:冷却原子を加熱せずに「つなぐ」ことは可能か?
    Feshbach共鳴 原子集団をレーザー冷却と蒸発冷却を続けて行うことで極低温にまで冷却し、 ボース凝縮(BEC)やフェルミ縮退を達成する手法は確立されている。 では、同じ冷却法を、原子が複数組み合わさってできた分子やクラスターのようなものに応用し、 分子のボース凝縮や超流動、超伝導を実現することは可能だろうか。 もし、
    "We have an ultracold K atom. We have an ultracold Rb atom.
    Oh, we have an ultracold KRb molecule!!"
    とできれば 最高である。 極めてコヒーレンスの良いレーザー光を用意することで、そのような一見魔法のように思えることが可能になるのである。
    [参考文献]
    • "Coherent Transfer of Photoassociated Molecules into the Rovibrational Ground State"
      K. Aikawa, D. Akamatsu, M. Hayashi, K. Oasa, J. Kobayashi, P. Naidon, T. Kishimoto, M. Ueda, and S. Inouye
      Phys. Rev. Lett. 105, 203001 (2010) doi

  • 「冷却原子の3体共鳴」
    ビジョン:エフィモフ共鳴の位置は、正確さを失わずにどこまで普遍化できるのか?
    Efimov共鳴 エフィモフ(Efimov)状態とは、1970年にロシアの原子核物理学者V. Efimovによって存在が予言された、特殊な性質をもつ3体の束縛状態です。 Efimovは、フェッシュバッハ共鳴のように、粒子間の2体の相互作用が共鳴的に強くなったとき、その近傍で 「長さスケールが等比級数的に大きくなる、無限個の3体束縛状態が出現すること」を導きました。 解析の難しい3体問題の解の一般的性質が、2体のポテンシャルの詳細に依らずに導かれるのは大変珍しいことです。 しかしその重要さにも関わらず、エフィモフ状態の実現は難しく、その実現まで35年以上待たなければいけませんでした。
    最初のエフィモフ状態の実験による実現は、冷却原子を用いてなされました。 2005年、インスブルク大学のチームはセシウム原子のフェッシュバッハ共鳴を用いて、エフィモフ状態の観測に成功したのです。 以来、実験と理論の両面から、エフィモフ共鳴のもつ普遍的性質が明らかにされつつあります。
    井上研究室では、フェッシュバッハ共鳴の近傍でKRb分子とK分子の非弾性散乱を精密に測定することにより、エフィモフ共鳴の観測に成功しました。 さらに米国の研究室と協力し、世界で初めて、エフィモフ状態の同位体シフトの同定と、その理論的解明に成功しました[1]。 同位体シフトの存在を確定することにより、従来のファンデルワールス長のみを用いた単純な普遍則は否定され、 エフィモフ共鳴においてフェッシュバッハ共鳴の性質が重要な役割を担うことを示しました。
    さらに井上研究室では、閉じ込めポテンシャルを工夫することにより、例えばルビジウムは1次元に閉じ込められているにも関わらずカリウムは3次元を動ける、 といった特殊な環境下でどのような3体状態が生じるか、実験を通して明らかにしようとしています。
    [参考文献]
    • "Isotopic shift of atom-dimer Efimov resonances in K-Rb mixtures: Critical effect of multichannel Feshbach physics"
      K. Kato, Yujun Wang, J. Kobayashi, P. S. Julienne, S. Inouye,
      submitted, arXiv:1610.07900

実験室Video

磁気光学トラップされたルビジウム原子